エンジニアリングディレクター、最高情報セキュリティ責任者(CISO)、および法務・コンプライアンス担当者にとって、AI 支援開発ツールの導入評価は大きな課題を伴います。開発生産性の向上と、知的財産の漏洩や意図しないモデル学習への流出リスクとのトレードオフです。JetBrains AI Assistant を検討する組織が最も懸念するのは、「クラウド上の大規模言語モデル(LLM)へ送信された自社独自のコードが、サードパーティに永続保存されたり、外部の基盤モデル学習に再利用されたりしないか」という点です。
本記事では、データ暗号化、ゼロデータ保持(Zero Data Retention: ZDR)ポリシー、ベクトル検索(RAG)のデータ境界、および組織レベルの統制スイッチを中心に、JetBrains と提唱パートナーが構築しているプライバシーガバナンスアーキテクチャを体系的に解説します。
エグゼクティブサマリー:主要なセキュリティ事実
- 顧客コードを用いたモデル学習の禁止: 商用契約に基づき、JetBrains および提携する外部 LLM プロバイダーは、顧客の独自コード、プロンプト、生成結果を公開モデルや基盤モデルの学習に使用することを契約上固く禁じられています。
- クラウド推論におけるゼロデータ保持(Zero Retention): 外部 LLM プロバイダーは厳格な B2B 契約の下で運用されており、推論実行後のメモリから即座にデータを破棄し、永続的な会話ログを残しません。
- 通信経路の完全暗号化: IDE、JetBrains AI プロキシ基盤、および下流の LLM プロバイダー間のすべての通信は、TLS 1.2 以上で暗号化されます。
- RAG・ベクトル検索の閉域処理: プロジェクト全体のコードセマンティック検索やリランキングには、JetBrains 自社インフラ上でホストされるオープンウェイトモデル(Qwen ベースなど)が使用され、埋め込みリクエストが OpenAI や Google などの外部ベンダーへ送信されることはありません。
- 商用ライセンスにおける詳細データ収集の既定無効化: JetBrains 独自モデル(Mellum など)の改善を目的とした「詳細なコード関連データ収集」は、組織・商用ライセンスでは既定でオフになっており、現場の開発者が単独で有効化することはできません。
- 粒度の高い除外設定: プロジェクトルートの
.aiignoreファイルによりファイルやフォルダ単位で AI 参照を遮断でき、.noaiを配置すればリポジトリ全体で AI 機能を完全に停止できます。 - 柔軟な高セキュリティ展開オプション: ネットワーク分離環境や厳格なデータ主権要件向けに、完全オフラインの全行コード補完(Full Line Code Completion)、独自 API キー接続(BYOK)、またはオンプレミス版の JetBrains AI Enterprise が提供されています。
1. リクエストのライフサイクルと多層処理アーキテクチャ
自社コードがどのように保護されているかを理解するには、IDE から推論結果受取までの処理経路を把握することが不可欠です。
[ 開発者 IDE ]
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+---> [ ローカル静的解析と除外フィルタ (.aiignore / .noai) ]
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+---> [ 全行コード補完(ローカル軽量モデル推論・外部通信ゼロ) ]
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v (TLS 1.2+ 暗号化トンネル)
[ JetBrains AI プラットフォーム プロキシ(欧州経済領域 EEA 拠点) ]
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+---> [ セマンティック検索 / RAG(JetBrains 自社ホスト埋め込みモデル) ]
| (ベクトル化処理は社内完結、外部ベンダーへの送信なし)
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v (TLS 1.2+ エフェメラル API 呼び出し)
[ 外部 LLM 下請けプロバイダー ]
(OpenAI、Anthropic、Google Cloud Vertex、AWS Bedrock、xAI)
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+---> [ メモリ上での一時的な推論実行のみ ]
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v (生成結果をストリーミング返却・データ保持なし・モデル学習なし)
[ IDE に補完結果を描画 ]
IDE 内でのコンテキスト限定収集
JetBrains AI Assistant は、プロジェクト全体をそのまま LLM にアップロードすることはありません。IDE のセマンティック解析機能(AST 解析、シンボル索引、依存関係グラフ)を駆使し、推論に必要な最小限のコンテキストのみを切り出します。
- 現在開いているファイルおよびカーソル周辺のコード断片。
- 使用されている言語規格、ランタイムフレームワーク、ファイル種別。
- ユーザーが明示的に選択したコードブロックまたはチャットプロンプト。
- 除外設定ルールによってフィルタリングされたプロジェクト構造情報。
安全なプロキシとしての中継
開発者の端末が、パブリックな消費者向け Web エンドポイントを直接呼び出すことはありません。すべての通信は、欧州経済領域(EEA)内のセキュアなデータセンターに配置された JetBrains AI サービスプロキシを経由します。この階層は以下のセキュリティ機能を果たします。
- メタデータのサニタイズ: 不要な端末識別子やローカル環境のシグネチャを削除し、推論に必要な情報のみに絞り込みます。
- クォータと流量制御: 組織単位での認証認可を実施し、不正リクエストを遮断します。
- エンタープライズ経路の保証: パブリックなエンドユーザー向けログキューではなく、商用 B2B 契約に基づく隔離パイプラインへ確実にルーティングします。
2. 外部 LLM プロバイダーとゼロデータ保持(ZDR)の境界
一般的な消費者向け Web チャットサービスでは、利用規約上、入力データがモデル改善に使用されるケースが一般的です。しかし、法人向け開発ツールには根本的に異なる法的・技術的保護が適用されます。
下請け LLM プロバイダーの構成
JetBrains の公式規約に基づき、以下のサードパーティ言語モデル事業者が AI 下請け業者として指定されています。
- OpenAI: GPT ファミリーモデル。
- Anthropic: Claude ファミリーモデル(直接接続または AWS Bedrock 経由)。
- Google: Gemini ファミリーモデル。
- Amazon Web Services (AWS): Amazon Bedrock でホストされるサードパーティモデル。
- SpaceXAI: Grok ファミリーモデル。
なお、JetBrains 自身がホストする自社モデル(Mellum、Mellum2、および Apache 2.0 ライセンスに基づく Qwen オープンウェイトモデル)は、JetBrains 独自のインフラ上で完結して動作しており、入力や出力がモデルの初期訓練元と共有されることはありません。
契約上の学習禁止とエフェメラル保持
JetBrains は各外部プロバイダーと企業間データ処理補足契約(DPA)を締結しています。これにより以下が法的に義務付けられています。
- 学習利用の完全禁止: 送信されたソースコード、プロンプト、生成結果を基幹モデルの学習、微調整(Fine-tuning)、蒸留に使用することは厳格に禁止されています。
- ゼロデータ保持(Zero Data Retention: ZDR): 入力データは推論計算中の揮発性メモリ内にのみ一時的に存在し、応答が JetBrains プロキシへストリーミング返却された直後にメモリから解放されます。
- 第三者への二次提供禁止: プロバイダーがデータを外部の評価者、監査機関、または公開インデックスに開示・転売することは禁じられています。
RAG・埋め込み(Embedding)の閉域性
プロジェクト全体のコード構造を把握するセマンティック検索(RAG)において、JetBrains は徹底したデータ保護措置を採用しています。
- コードのベクトル化およびリランキング(
Qwen3-Embedding-4B、Qwen3-Reranker-0.6Bなど)は、JetBrains 自身が運用するインフラ上で処理されます。 - ベクトル埋め込みリクエストが OpenAI や Google などの外部 API へ送信されることはありません。
- 企業の機密コードがサードパーティの共有ベクトルデータベースに保存される心配はありません。
3. データ収集のガバナンス:テレメトリー vs 詳細コードデータ
JetBrains は収集対象となるデータを明確に区分しており、企業はポリシーに応じて管理できます。
| データ区分 | 含まれる内容 | 商用ライセンスの初期値 | 主な目的 | 保持期間 |
|---|---|---|---|---|
| 匿名テレメトリー | IDE 機能の利用頻度、クリック数、操作レイテンシ | 有効(設定変更可) | 製品の安定性向上と UX 改善 | 通常の運用サイクル |
| 運用メタデータ | API 呼び出し回数、エラー率、トークン消費時間 | 有効(設定変更可) | 障害防止とキャパシティ管理 | 通常の運用サイクル |
| 詳細なコード関連データ | LLM に送信された完全なプロンプト、応答、コード断片 | 強制的に無効(Off) | JetBrains 独自モデル(Mellum 等)の改善・学習 | 同意時のみ最長 1 年 |
詳細データ収集に対する企業向け保護策
JetBrains は自社モデル(Mellum)の改善のために、ユーザーが自発的にデータを寄託できるプログラムを用意しています。ただし、法人環境に対しては強力な防御策が敷かれています。
- 初期状態で無効: すべての商用ライセンス、法人組織ライセンス、教育ライセンスにおいて、詳細コードデータの送信は初期状態でオフになっています。
- 組織レベルのオーバーライド制御: 個々の開発者が端末の設定画面で誤って有効化しようとしても、JetBrains Account の組織管理者が一括許可を与えていない限り、有効化されません。
- EEA 域内での厳格管理: 仮に個人がオプトインした場合でも、データは欧州経済領域(EEA)内の制限された環境に保管され、外部のサードパーティ LLM プロバイダーへ渡されることは一切ありません。
4. エンタープライズ向けの多層制御スイッチ
組織のセキュリティ基準に合わせて、4 つのレイヤーで柔軟に制御できます。
[ 第 1 層:組織管理ポータル ] ---> 全社的な AI 機能の一括有効/無効化、データ収集の強制ロック
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[ 第 2 層:リポジトリ単位の停止 (.noai) ] ---> プロジェクト全体で AI 機能を完全に遮断
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[ 第 3 層:ファイル/パス単位の除外 (.aiignore) ] ---> 暗号鍵、コアアルゴリズム、機密フォルダを保護
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[ 第 4 層:開発者によるローカル監査ログ ] ---> ai-assistant-requests.md で送信内容を常時検証
1. 組織単位の一元管理(JetBrains Account)
管理者は JetBrains Account ポータルから、ライセンス全体のポリシーを一括適用できます。
- AI の全社一括停止: セキュリティ監査期間中などに、組織全体で AI Assistant を即時無効化可能。
- データ収集設定の強制ロック: 「詳細なコード関連データの送信」を無効のままロックし、現場開発者による変更を禁止。
2. リポジトリ全体での完全停止:.noai
NDA 対象の案件や極秘プロジェクトなど、いかなる AI 支援も許可できないリポジトリでは、ルートディレクトリに空の .noai ファイルを作成します。
touch .noai
このファイルが存在する場合、ライセンスの有無にかかわらず、当該プロジェクト内ではインライン補完、AI チャット、コード生成機能が完全に停止します。
3. ファイル・フォルダ単位の除外設定:.aiignore
「一般的な業務コードでは AI を活用したいが、認証鍵や独自アルゴリズムモジュールだけは隔離したい」という場合、プロジェクトルートに .aiignore を配置します。
記法は .gitignore と同様です。
# 独自コアアルゴリズムモジュールの除外
src/core/crypto/
src/proprietary/trade_engine/
# 秘密鍵・環境変数ファイルの除外
config/secrets/
**/*.env
**/*.pem
**/*.key
# 知的財産・特許関連ドキュメントの除外
docs/patents/
internal_compliance/
JetBrains AI Assistant は、既存の .cursorignore、.codeiumignore、.aiexclude ファイルも自動的に認識し、除外ルールを継承します。
4. 監査ログの可視性(ai-assistant-requests.md)
送信されるプロンプトやコード断片の内容をローカル環境で直接確認できます。
- IDE 上で
Shiftキーを 2 回押して Search Everywhere を開きます。 - Open AI Assistant Requests Log in Editor を検索して実行します。
- エディタに
ai-assistant-requests.mdが開き、そのセッションで実際に LLM へ送られた正確なプロンプト、ファイル断片、パラメータをすべて確認できます。
5. 高規制環境・隔離ネットワーク向けの展開オプション
クラウドサービスの利用が禁止されている金融・防衛・機密インフラ向けに、JetBrains は代替アーキテクチャを提供しています。
全行コード補完(Full Line Code Completion: ローカル動作)
- 動作原理: 開発者のローカルマシン(CPU / GPU)上で直接動作する小型ディープラーニングモデルによる 1 行補完。
- プライバシー特性: ネットワーク通信が完全にゼロ。インターネットから切り離された完全閉域環境でも動作します。
- 提供形態: 近年の JetBrains IDE に標準搭載されており、追加のクラウド AI サブスクリプションは不要です。
Bring Your Own Key(BYOK)
- 動作原理: 自社で契約済みの OpenAI や Anthropic、Azure OpenAI の API キーを直接 IDE に設定。
- プライバシー特性: API キーはローカル端末上で暗号化保存され、JetBrains のサーバーには送信されません。自社とクラウド事業者との間で直接締結された DPA に基づいてデータが処理されます。
JetBrains AI Enterprise(オンプレミス・プライベートクラウド)
- 動作原理: JetBrains IDE Services の一部として提供され、自社 VPC または社内オンプレミス環境に AI 制御プレーンを構築。
- プライバシー特性: 社内クラスタで動くオープンウェイトモデル(Ollama、vLLM、LM Studio 経由)や、社内プライベートエンドポイントへ接続可能。独自の監査ログ保管、アクセス制御、閉域網での運用を実現します。
6. アーキテクチャ比較表
| 比較項目 | 標準商用版 JetBrains AI | JetBrains AI Enterprise | Bring Your Own Key (BYOK) | 全行コード補完 (Full Line) |
|---|---|---|---|---|
| モデルホスティング | JetBrains クラウド + 外部 LLM | 自社 VPC / オンプレミス | 開発者端末からベンダーへ直結 | 開発者のローカル PC |
| コードの外部学習 | 契約上厳格に禁止 | 完全に社内閉域でゼロリスク | 自社契約の DPA に準拠 | なし(オフラインモデル) |
| データ保持(推論時) | ゼロデータ保持(ZDR) | ゼロデータ保持 / 社内統制 | 自社契約の規約に準拠 | 保持なし(一時メモリのみ) |
| 外部通信 | TLS 1.2+ で欧州プロキシ経由 | 完全内網または社内専用線 | 企業指定のクラウド回線経由 | 外部ネットワーク通信ゼロ |
| 埋め込み / RAG 境界 | JetBrains 隔離ホストモデル | 自社プライベート計算クラスタ | ベンダー API またはローカル | ローカル構文解析インデックス |
| 除外制御 | .aiignore, .noai, 管理画面 | 集中管理ポリシー + 設定 | .aiignore, .noai | IDE 設定画面でオン/オフ |
| 準拠規格 | SOC 2 Type II, GDPR, 公式 DPA | 企業内最高度セキュリティ基準 | 自社クラウド監査基準を継承 | エアギャップ隔離環境に適合 |
まとめと推奨導入ステップ
JetBrains AI Assistant は、「通信暗号化」「EEA プロキシによるサニタイズ」「外部 LLM ベンダーとの学習禁止・ゼロデータ保持契約」「オープンウェイトモデルによるベクトル検索の自社完結」「.aiignore によるファイル除外」といった多層防御アプローチにより、プロプライエタリコードの保護と開発効率の向上を両立させています。
エンジニアリング組織への推奨導入ステップ:
- 組織ポータルの既定値確認: JetBrains Account の管理画面で、「詳細なコード関連データの収集」が無効のままロックされていることを確認します。
- リポジトリ除外ルールの標準化: 暗号鍵、独自特許モジュール、規制対象コードを含むリポジトリに
.aiignoreまたは.noaiを配備します。 - 実機ログでの監査検証: パイロット運用中に
ai-assistant-requests.mdを開き、送信コンテキストの境界をセキュリティチームで実地検証します。 - セキュリティ要件に応じた形態選択: 通常の開発には標準の商用クラウド版を採用し、厳格な隔離が求められる部門には Full Line 補完や JetBrains AI Enterprise を検討してください。
参考文献
- JetBrains AI Service Providers
- AI Assistant in JetBrains IDEs | IntelliJ IDEA Documentation
- JetBrains AI Terms of Service (AI Assistant, Junie)
- Product Data Collection and Usage Notice
- Frequently Asked Questions About Detailed Code-Related Data Collection
- JetBrains AI Enterprise: Securely leverage the power of AI and unleash developer productivity
- JetBrains Data Processing Addendum